miwatakaの日記

生き方の知恵

お金とは価値交換の単なる数字

日本で暮らしていると頻繁に美味しい食事を食べられる。毎日贅沢な暮らしをしているとそれが癖になり習慣になってしまうので、生きる為のコストが高くなる。

 

昔はよくキャバクラや風俗に通っていた。食事は外食ばかりで自炊する事などほとんどなかった。

 

いつしかそれが当たり前のように、風俗へ行って一時的な性欲を解消する事が日常になっていた。心の寂しさや虚しさを紛らわせる手段でしかなかった。

 

2ヶ月ほど前、氣乗りしなかったがキャバクラへ行く事があった。

自分はまず、以前とは全く違う感覚になっていた。

女の子がとなりの席に座り、その子が話し始めた瞬間、取り繕った演技丸出しの接客に引いてしまった。

店内にはうるさい大きな音楽が流れていて耳障りだし、これにお金を払う価値があるのか疑問に思った。

 

過去を振り返って考えると、わたしは相当な額をキャバクラや風俗に注ぎ込んできたし、当時はそれが非常に楽しかった。

 

可愛い女の子と出会って喋れるし、時にはセックスしたり付き合ったりして、わたしには釣り合わないような綺麗な彼女を作る事も出来た。

 

でも、いまそれが楽しいという感覚が全くない。

 

連れて行って頂いた先輩には申し訳ないが、この時間に何十万、たぶん2、30万円払っていたが、それに見合った価値ではないと感じた。

 

風営法の成り立ちや法律は詳しくわからないが、キャバクラや風俗は日本の大産業だし、経済を活性化する上では重要な仕事だと思う。

 

ただ、たぶん生意氣かも知れないけども、世界旅行をしたお陰で、人間の裏表みたいなのが少し理解できたような氣がする。

 

旅行中に大量のマリファナを吸ったせいなのか、ブラジルで毎日命を削るような日々を過ごしたからなのか、アムステルダムで異文化交流を楽しんだからなのか、世界中の美女とセックスしまくったからなのか、英語やポルトガル語スペイン語が理解できるようになったからなのか理由はいまのとこらはっきりしないが、取り敢えず人が演技している感覚が不思議とわかるようになっている。

 

つまりは、相手と話をする時に本音で喋っているのか、うわべで適当に喋っているのか、何か不思議な感覚を養ったようである。

 

結局のところ生きていく上で重要なのは、幸せを感じられる心地よい空間に身を置きながら、この社会の仕組みの中においてどのような立ち位置で幸福感を感じて生き抜いていくかという事である。